郵便局から取り戻せ

by manager

(「中西重忠研究室:24年の歩みと集いし人々 中西重忠教授退職記念事業会 2005年」から)

中西重忠教授退職記念誌ということで、どれくらいオフィシャル度を要求されるのかも確かめずに本音でぶつかりあった中西研らしく思いつくまま書いていきますので、以下論理的でない点(よく注意されました)や無礼がありましたらお許し下さい。

私は中西研在籍5年半ですが、私の17余年の研究人生の中でも、中西研での経験は時間以上のかなりの部分を占めています。大学院1年生の春、4月も半ばになって自宅でごろごろしていたら「いつからくるんや」という中西先生の電話であわてて研究室にいった初日(昭和61年4月14日)、京大西部講堂で火事がありました。黙考しながら廊下をぺたぺたと歩いておられた中西先生が4階の廊下からその火事を見つけ「火事や!」と叫んでおられたが、他の先輩達は一向に実験室から出て行かない。教授の言うことは聞くもんだと馳せ参じた私は、ちょうど4階から見下ろす道をアタッシュケースに帽子姿でさっそうと本庶佑先生が通勤されてくるのを見かけました。中西先生「本庶、火事や!」。本庶先生は振り返ったもののそのまま医化学教室の玄関へとはいっていかれたのが、初日の朝の出来事としてつい昨日のように思い出されます。

私が大学院生としてはいった年は、留学前ということで、中西研一期生の中で那波宏之、影山龍一郎、高垣吉男、各先輩方と単期間オーバーラップする幸運にも恵まれ、当時皮膚科にもどられていた田中俊宏先生からは、中西研では一日でも長く同じ釜のめしをくった人間がえらいんだからという逆説的な?説明を受け、中西研での大学院生活をスタートしました。

学部学生時代に何も実験らしい実験をしてこなかった私は、当時助手をされていた大久保博晶先生から遺伝子工学のイロハ、ABCを教えていただきました。その後、高血圧モデルマウスの作製というテーマのもと、中西研サザンオールスターズの桑田佳祐役として最長1年3ヶ月間サザン三昧の日々を送りました。当時は技術の進歩!でマウスのしっぽからちょうど一週間で結果がでるというサイクルで、「恐怖の」週末便と称して、川崎の実中研から金曜日夕方か土曜日にしっぽが送られてきました。最後には、しっぽをたたく木づちで「三回転半ひねりたたき」くらいのオリジナルプロトコールが完成しました。中西先生には一度だけ見ていただいたのですが(絶対覚えておられないと思いますが)、その時に限り失敗しました。「アホか」の一言。

その長い苦労の甲斐あって、学位の仕事としては「結果的に」非常に面白いテーマ(アフリカツメガエル卵母細胞系でチャネル活性を示す膜蛋白のクローニング)をいただきました。最初は訳のわからなかったフラクションが、今ではヒト疾患の原因遺伝子としても知られているカリウムチャネル複合体の一つで創薬にもつながる分子になっている事を考えると、やはり“基礎研究は大事”と実感します。また、一時期、中西研のほとんどの人がこれに関するテーマをやっていたことがあるというのは、私しか覚えていない事実かもしれません。その詳しい内容の記載は別に譲るとして、この時の一連の仕事、経験は、私にとって忘れられないものとなっています。来る日も来る日もスクリーニングでポジティブが得られない日々が続き、もう(半分)あきらめかけていたある日、昼でも暗いカエル部屋の片隅で「なんかちゃうわ」と思った瞬間の興奮は、未だにサイエンスを続けられる根幹になっている気がします。ものすごい数のネガティブを見ていたからこそ見過ごさなかった「ネガティブではない反応」だったと自負しています。

今では学生やテクニシャンにも想像できないですが、苦労した約500bpのシーケンスも終え、これまでにないチャネルタイプ(構造)ということで、この図さえ確認できればNature投稿という期待と不安の中、その最後の実験をやっていたのが3年生の(世間でいう)ゴールデンウィークの最中でした。温度や湿度が高くなり、発現のいい卵を見つけるのに苦労している時期で、いいのを見つけると徹夜をしてでもその日のうちにデータをとってしまわないといけない状況だったのは事実です。また、当時電気生理の経験の乏しかった頃で、電気はノイズになるからとカーテンをしめた部屋で電気を消してまさに真っ暗な中で一人レコーダーに向かっていました。今でいう「ひきこもり」状態です。投稿前の仕事ということで中西先生も気にされていたのか、帰宅される前に、めずらしくカエル部屋までこられて「どうや」「・・・」「明日までに○○やってくれ、そしたら出せるから」と言われました。一個に要する時間(幸か不幸か他のチャネルと違って活性化するのに極めて時間がかかり一個のアッセイに30分から1時間かかっていたので)を考えると問題がおこらなくて順調にいってもどう考えても明日までに間に合わない。ただ、私も若かったのか、一人真っ暗な中でレコーダーに向かう徹夜でも全然眠くはならず、たいしたトラブルもなくデータをとり続けました。時計の時間を見てわかった次の朝、中西先生が再び来られて「まだやってんのか」とめずらしくおほめの言葉をいただき、後にも先にもほめられたのはこの時だけだったかもしれません。

「中西ヨットスクール」(当時でも異常な?厳しさの象徴であった「戸塚ヨットスクール」にならって)並みの「やる気がないなら荷物まとめてでていけ!」とお叱りを受けたりした厳しいペーパーワークの後、やっとの思いで論文を投稿して、その日はめずらしく(!)四条界隈まで飲みにいって夜中に帰ってくると、当時一緒に住んでいた妹が「京大の中西先生から電話があって明日朝早く来るようにと」と言うではないか???今なら携帯でもっと簡単につかまったと思いますが。二日酔いもふっとんで早朝教授室まで行くと先生は既に来られていて、教授室でやや、いやかなり不機嫌そうな様子でタバコをくゆらせながら「コーヒーをいれてくれ」。しかし、普段コーヒーを飲まない私はどうやっていれればよいかを聞く人(秘書さん)もまだきていなく困ってしまってわんわんわん!?先生が言われるには「まったく新規のシーケンスなので心配になった。今からなら中央郵便局に行けば取り戻せるのでもう一度確認する」。実験室から失敗したのも含めてありとあらゆるシーケンスのフィルムを持って来て、早朝の教授室で「ATGC….」と読み合わせをしました。今の学生にはどういう作業かもわからないかもしれませんが。勿論、片ストランドが終わったら、反対からということでしたが、もし、間違いや不明な所があったらどうしよう、「ほんまに郵便局に走らなあかんのやろうか」とまさに心臓が爆発する感じで、130アミノ酸の小さい蛋白やからよかったものの沼研(故沼正作先生)のNaチャネルやCaチャネルのようなでかいもんなら(とりにいっても)間に合わんやんという冗談めいたことは後で振り返るのが精一杯でした。先生のサイエンスに対する厳しさを実感したのは勿論ですが、今(オンライン投稿)だったらどうなったんでしょう。

これはほんの一例ですが、中西先生には「サイエンスとは」という薫陶を実践で言葉で受け、研究者としてのさまざま基本を学びました。そのことは、私が未だサイエンスをやる原動力になっているのは間違いありません。さらに、中山和久、垣塚彰、川上秀史、寳子丸稔、益康夫、筧善行の諸先輩初め、同輩後輩を含めた研究室の皆からも実験の技術的なことから社会勉強に至るまで沢山のことを学びました。午後9時頃を過ぎるとスタッフの先生方も帰宅されて、それからの時間は違った意味で「サイエンティフィックに」充実した得る所の多い時間帯でした。「(午前)3時のおやつ」もなつかしいです。当時の同じ釜のめしをくった仲間達と話をすればどんどんまた違う思い出がでてきます。あと余談ですが、長い間研究室の「幹事」を務めた思い出として、30人近くになったラボの人達の二次会として、「チョコパフェ」を食べる喫茶店を探すのに毎回苦労しました。30余人の変なにいちゃん、おっさん連中が(当時二期生以降大学院生には女性はいなかった)並んで「チョコパフェ」を食べる風景はまさに異様!!話は戻りますが、京都の街、京大の雰囲気、そして何よりも研究室の中では教授も学生もないという自由なサイエンスをする雰囲気は“すばらしい”の一言につきると思います。この事は中西研を出ていってますます実感するところです。一方で、「ごくたまに」怒ると出て行けとも言わないのに勝手に荷物をまとめて出て行く大学院生のいる自分のラボではたしてどこまでこの雰囲気を作れるのかと自問自答の日々です。

このすばらしい研究室を築かれた中西先生にあらためて尊敬の念を申し上げますとともに、その一員に加えていただいたことを大変有難く思っております。現在物理的に近くで仕事する関係で、幸運にも早石修先生にも直接お話させていただく機会がありますが、研究者として現役でますますお元気です。中西先生は京大を退官されるといっても、これからまだまだ一仕事も二仕事も大きな仕事をされ、ますます発展させていかれることは間違いなく、今後とも相変わらずご指導いただけますようお願い申し上げます。

 

内匠 透